スバールバル諸島を見つけた人👦
こんにちは、Takeruです。
私は世界最北の大学、スバールバル大学へ留学(2022年8月〜2023年6月)していました。
現在はというと、仕事でスバールバルに引き続き滞在しています!
風邪で寝込んでいたため、しばらくぶりの更新となりました。😕
お久しぶりです。
さて、皆さんはウィレム・バレンツさんという名前を聞いたことはありますでしょうか?
この方はスバールバル諸島を見つけた人として知られています。
今回は少し歴史的なお話をしたいと思います。
またこの話は現地のツアーで観光客の方にする話です。私自身もそこで働いているため、自分自身への備忘録となります。😀
バレンツさんはオランダ出身の航海士、探検家です。
今から約400年前、ヨーロッパとアジアを結ぶ航路は、スペインやポルトガルに占領されていました。この頃からヨーロッパの人々はアジアとの貿易を盛んに行なっていましたが、アジアまで行くには高い通行量を払い、港などを使う必要があったのです。
そこでヨーロッパの人々は北極を通ってアジアまで行ければ、解決だ!と考え、北と東を結ぶ新たな航路を探す旅に出かけました。1594年のことです。1度目の挑戦では航路を見つけることができず、1595年にもう一度挑戦しました。しかしその時も見つけられませんでした。
大きな動きがあったのは1596年です。
バレンツさん率いる部隊はある小さな島の近くで、白いもふもふした動物が泳いでいるのを見つけます。シロクマです。🐻❄️
旅の目的は中国までの航路を探すことだったので、船には中国に売るためのものをたくさん積んでいました。せっかくだし、この動物も捕まえて中国に売ろうと考えたバレンツさんたちは、大きな船に積んでいた小さな手漕ぎ船を使って近づきます。
作戦としては、ロープを巻き付け、船で引っ張りながら持っていこうという考えです。しかし、シロクマのことを何も知らなかったバレンツさんたちです。
すごい速さで泳ぐシロクマが船に乗ってきてしまいました。🚢
格闘の末、そのシロクマを殺してしまいました😅
この事件があった時の近くの島はシロクマ島と名付けられます。スバールバルとノルウェーの間くらいに位置する島です。
さらに北に進むと海は氷で閉ざされていました。
進むことができなくなったため、南に戻ることにします。
進んでいくと、バレンツさんは地平線に尖った山を見つけます。
オランダ語またはドイツ語で尖った山を意味する言葉は「スピッツベルゲン」と言います。
これがスバールバル諸島のことです!バレンツさんたちはスバールバル諸島北西部にたどり着いたのです。歴史上これが初めてこの島を見つけられたとされています。
この島のオリジナルの名前はスピッツベルゲンなのです。
スバールバルという言葉は冷たい海岸を意味するノルウェー語で後から名付けられました。
スバールバルは諸島なので、一番大きい島は現在もスピッツベルゲン島と名付けられています。
ちなみに、ウィレムバレンツさんが作った地図がこちらです。
画面左側中央付近の二隻の船はバレンツさんたちで、その横を泳ぐ動物がシロクマです。
そのシロクマの上の小さな島がシロクマ島、さらにその上がスバールバル諸島です。
スバールバルを発見後、、
バレンツさんたちは、二手に分かれ、バレンツさん率いるグループは東へ、もう一方の船はもう一度北を目指します。
バレンツさんを含んだ17人はロシアのノヴァヤゼムリャという島に辿り着きますが、この時はもう8月末で、海も凍っていたため引き返すことができず、島に上陸します。
船が氷の上で動けなくなっているのがわかるかと思います。
船を使い、小さなキャビンを建て、バレンツさんたちはこのキャビンで冬を越すことを決意しました。🥶
この画像に映っているのが作成したキャビンで、周りには狩用のトラップが置いてあります。
キャビンについている樽については、冬になると、キャビンの入り口は閉ざされてしまったため、煙突から出なければなりませんでした。しかし、煙突から出ていく姿はまるで、氷の中から出たアザラシのよう。シロクマはアザラシと勘違いし、この煙突付近で待ち伏せしていました。
そのため、監視用の樽だそうです。また十分な資材はなかったため、最初は壁と天井がない骨組みだけのキャビンが出来上がったそうです。
バレンツさんたちの装備は食料はあるものの北極の冬を耐えられるようなものではありません。
靴下が燃えるまで暖かさを感じなかったそうです。🧦🔥
しかしこのグループは諦めずに、毎日決まった時間のスケジュールをこなし、冬を耐えます。北極の冬はずっと暗いので、ビタミン不足にも悩まされました。
それでも彼らは耐え、船が出せる季節が来ました。
ようやく帰れると喜ぶのも束の間、船で帰る途中にバレンツさんは亡くなってしまいます。
画面中央で目を瞑っている人がバレンツさんです。
17人いたメンバーも最終的には12人になっていましたが、引き返す途中でオランダの船に助けられ無事、12人は母国へ帰ることができました。
しかし、帰ったあと、彼らを待ち受けていたのは、投獄でした。👮♀️
彼らは北東航路を見つけるために政府から船や中国へ売るための商品を積んでいましたが全てを失ってしまったからです。キャプテンであるバレンツさんも含めて。
投獄をされてしまいましたが、彼らは旅の日記を持っていました。📓
その旅の日記がヨーロッパ中に広まると事態は一変します。日記には以下のようなことが書かれていたと言われています。
フィヨルドの端から端まで、くじらの上を渡り、海で靴が濡れることなく、歩ききることができる。と 🐳🐳🐳🐳
くじらの油は貴重な資源なので、このことが広まると、たくさんの人がくじらを目当てにこの島に来ました。スバールバル諸島は捕鯨の歴史へと進んでいきます。
最終的に亡くなってしまったバレンツさんでしたが、その功績は今でも語り継がれています。
寂しく大変なストーリーでしたが、彼らのおかげで現在のスバールバル諸島があります。
資料も少なく、長い文章になってしまいましたが、最後までお読みいただきありがとうございます。
このストーリーは実際にスバールバル諸島に来た際、ツアーなので聴くことのできるお話です✨
博物館では実際の資料も展示されているので、今度行った時写真を撮って、ブログの資料として載せようと思います!
ありがとうございました。
Takeru